歴史をたどって

ホームページのリニューアルにあたり、これまで調べてきた店の歴史を整理しようと思い立ちました。
うちには店の裏手にかつて三棟前(みとまえ)蔵があり、祖母(野澤ミツ・初代野澤作蔵の妻)が、昭和30年代の高度経済成長期の頃の話をよく聞かせてくれたこともあり、店の歴史に興味を持ちました。私の父は、教員をしていたこともあり、父も自ら古文書を調べたりしていたようです。手元に残る過去帳にはじまり、郷土史などの文献に「野澤」に関連する名が出てくれば、それについてまた別の資料を探すという繰り返しでした。
祖母や父からの聞き伝えのため、記憶や情報が不鮮明であったり曖昧な箇所もありますが、家業の歴史を紐解く作業は、先人たちの人生をたどるような楽しさがありました。

有限会社野澤作蔵商店 会長 野澤俊男

創業からの歴史

1875年(明治8年) 大蔵省は、尺度・斗量・権衡の基準を定め、全国的な統制を計り度量衡取締条例を公布。各県、度量衡各器種ごとに一名の製作請負人を設ける免許鑑札制となった。当時足柄県に属していた小田原地方では、尺度・鈴木新左衛門、斗量・曽根田忠蔵、権衡・野澤好兵衛がそれぞれ製作請負の免許を受けた。
『大日本度量衡会誌』によると、小田原宿万年の野沢太七が権衡の売捌人として免許鑑札を受けている。
1895年(同28年) 野澤好兵衛は曽根田忠蔵とともに「曽根田野澤衡器製造合名会社」を設立し、代表社員を務める(明治末期に解散)
1896年(同29年) 小田原町新玉3丁目510番地に小田原度量衡検定所が開設
1899年(同32年) 野澤好兵衛は鈴木重一、半田菊次郎等数名とともに発起人となり、神奈川県度量衡組合を設立。大磯町山本楼にて発会式 を行い、好兵衛は幹事に就任

屋号誕生以降の歴史

1921年(大正10年) 現在地において、度量衡器の販売・漆器物および箱根物産の卸・小売業を始める
1924年(同13年) 箱根物産卸業を主体とし、指物・挽き物玩具・漆器類を神奈川近県および北海道から九州まで通信販売を始める
1952年(昭和27年) 法人組織化し、初代代表取締役に野澤作蔵が就任
1954年(同29年) 野澤作蔵、箱根物産製造卸組合の組合長に就任
1960年(同40年) 野澤作蔵の逝去に伴い、作蔵の長男・野澤正蔵が代表取締役に就任
1982年(同57年) 野澤正蔵の長男・俊男が専務取締役に就任
1989年(平成元年) 野澤正蔵、箱根物産製造問屋組合の組合長と箱根物産連合会の副会長に就任
1994年(平成6年) 野澤俊男が代表取締役に就任し、正蔵は代表取締役会長に
2018年(令和元年) 野澤俊男の長男・尚和が代表取締役に就任し、俊男は代表取締役会長に
店内に架る「箱根物産卸問屋組合」の看板

地図に残る「熊沢や」

父からは、うちの先祖にあたる熊沢家は1687(貞享4)年頃に千葉の佐原から小田原へ来たと聞いています。 城主として入城した大久保忠朝とともに、小田原へやってきたと言うのです。一方で、郷土史の研究をしていた中野敬次郎先生の本には、上郡柳川村(現・秦野市)の名主・熊沢家の三兄弟のうち、行商から身を起こした太七が「熊沢屋」の名を名乗り青物町に店を構えた、という記述があります。小田原市江ノ浦(記載ママ)の中村地図研究所発行の、1800年代中期の小田原城周辺を記した『小田原歴史地図』のなかに、「熊沢や太七(足袋)」の名があります。(※1)
これが現在の当店とほぼ同じ場所ですね。

(※1)『小田原歴史地図』に残る「熊沢や太七」の名

はっきりしたルーツは分かりませんが、初代太七から何代か経て幕末の頃、今の屋号「菱本」の野澤家が分家して始まったと思われます。
足袋や太物を扱っていた「熊沢屋」は、小田原宿から15kmほど離れた足柄上郡金井嶋村(現・開成町金井島)にも販路を開拓していたようです。1766(明和3)年に金井嶋で行われた小商人に関する調査で、熊沢屋が打綿・油・元結・茶・足袋など多岐にわたる品目を扱っていたことがわかります。祖母からは、訴訟や会合で小田原城下へ参じる地方の人が滞在する「郷宿」や「村宿」という制度のため、熊沢屋が金井嶋村の人々を世話していたという話も聞きました。

「野澤作蔵商店」の誕生

時代を下って1875(明治8)年、ここからははっきりと現在の野澤作蔵商店の足跡をたどることができます。
この年、大蔵省が公布した度量衡取締条例(※2)のもと、野澤好兵衛が衡器の免許鑑札を受けました。好兵衛は1895(明治28)年、条例公布時に斗量の免許鑑札を受けていた曽根田忠蔵とともに「曽根田野澤衡器製造合名会社」を設立。1899(明治32)年には、神奈川県度量衡組合の設立に携わるなど、精力的に事業に取組みました。1923(大正12)年発行の「小田原案内最新絵図」には、神奈川県小田原度量衡検定所の名が記されています(現在の栄町4丁目交差点付近)。(※3)
余談ですが、何度か版を新たに発行されているこの絵図には、2023年の現代でも同じ場所で商いを続ける店の名が多く見られます。小田原が商工業の発展とともに栄えてきた城下町であることを感じられる資料だと思います。
その後1921(大正10)年に、野澤作蔵商店は現在地において、度量衡器の販売・漆器物および箱根物産の卸・小売業として開業を果たしました。

(※2)府県一人に限り、度量衡(長さ・容積・重さ)の計測器械の製作人に免許鑑札を与える制度。足柄県(当時)では、衡器の野澤家のほかに、度器は酒匂村の鈴木新左衛門、量器は小田原宿の曽根田忠蔵が免許を受けた。
(※3)小田原案内最新絵図(1923年発行)に記された「小田原度量衡検定所」

関東大震災からの復興

1900(明治33)年刊行の『百家名鑑第五集』という資料に、「野澤作蔵商店」の名を見つけました。(※4)
これは市内根府川の寺山神社倉庫で発見されたもので、商家や事業者を筆頭に、藩士や僧侶、教員等278人の屋号と名前が掲載されている、今でいう〝名刺広告〟のようなものです。現在でも屋号として使っている菱本を冠し、職業を示す箇所には「曾根田野澤衡器製作合資會社」とあります。
微妙な相違はあれど、おそらく1895(明治28)年設立の曽根田野澤衡器合名会社のことではないかと思うのですが、定かではありません。
この頃の資料には、何度か版を重ねて発行された「小田原最新絵図」などもあり、城下町周辺をたどっていくと、現在でも同じ場所で商いを続ける店の名が多く見られます。小田原が商工業の発展とともに栄えてきた城下町であることに感じ入りました。

(※4)『百家名鑑第五集』

1923(大正12)年9月の関東大震災後でも、うちの裏手にある蔵はびくともしませんでした。同年暮れ、うちの店の向かいに、その名に希望を託した映画館「復興館」(※5)が建ちました。
知る人は少ないと思いますが、最盛期には7館もあった小田原の映画館のうちの一つで、うちがオーナーで劇場の経営は親戚に任せていました。おそらく商売に才覚のあった祖母の発案ではないかと思います。映画館のあがりで温泉に行くような生活をしていたというあたりに、時代の豊かさが窺えました。

(※5)関東大震災後に建った「復興館」
国際劇場、日活劇場などと名を変え、昭和56年に閉館した

古き良き「昭和」という時代

1945(昭和20)年8月、太平洋戦争終戦間際の小田原空襲で、うちや復興館を含む青物町一帯の建物は焼失しました。父(正蔵)はバラックでの再建を考えていたようですが、祖母(ミツ)は頑丈な木造店舗と家屋にこだわり、材木商が持ち込む中からいい木を選んで買い求め、現在の店が完成しました。

昭和30年代に入り、青物町を含む宮小路は小田原駅前に匹敵するほどの賑わいを見せていました。子ども心に、松原さん(※6)のお祭りには道の両脇に露店が並び、それは楽しかった記憶があります。うちが青物町で初めて車を買ったのも、この頃のことです(※7)。
(※6)小田原宿総鎮守の松原神社

(※7)社用車にもたれる俊男会長(左)と、賑やかだった商店街の風景

当時は店からすぐの御幸が浜に汽船が停泊しており、うちに商談でいらしたお客さまの商品を江の島まで船で送ったり、日光や北海道、身延山に九州からも注文があったという話も祖母から聞きました。
昭和40年~50年代には木製玩具やひみつ箱が人気を博し、その後ダンスする女の子の絵がついたパッカリーと共引という小物入れが大ヒットしたのは、懐かしい思い出です。
バブルがはじけてからの10年はもう、言葉に尽くせないほどの厳しさでした。仲間とも「来年は持ち直すだろう」なんて気楽に話していたのが、だんだんと笑っていられない状況に直面し、試行錯誤の繰り返しで地道に商売を続けました。

昭和30年代の青物町商店街
昭和40~50年代の青物町商店街(日活)

平成から令和へ

1994(平成元)年に先代が会長に、私が社長になってからは「この店を残したい」という一心でやってきました。夥しい数の商品を扱う毎日は、常に仕入れの難しさと隣り合わせ。時には欲をかいて大量に仕入れた全国的ヒット商品が、事故のニュースと同時に売れなくなり在庫に頭を抱えるなど数々の失敗も経験しました。

転機は度々ありましたが、2000年(平成12)年頃から東京ビックサイトでのギフトショーに出店するようになったのは大きなターニングポイントでした。私と妻と従業員で初めて参加したときにはブース作りにさえ難儀しましたが、ひみつ箱を「マジックボックス」と呼ぶ外国人に人気を博したり、これがきっかけでドイツやフランスなど海外への販路が開けたことは大きな喜びでした。
取引先やお客様への不義理だけはしないように励み、2018(令和元)年、現社長にバトンを渡しました。 商売への向き合い方が覆されるほどのコロナの波がやってきて、困難を感じることもあったと思います。新しいことにさまざま挑戦してほしいですね。(2023.11)

青物町商店街(平成15 年)

参考文献

『小田原・足柄今昔写真帖 保存版』郷土出版社 2003年
『小田原藩 – 士農商工の生活史』 内田哲夫 有隣新書 1981年
『小田原歴史地図』 中村地図研究所
『片岡日記 大正編』 小田原史談会 2022年
『小田原市制施行70 周年記念写真集 ふるさと小田原』 郷土出版社 2010年
『小田原地方商工業史』内田哲夫 夢工房 1989年
『小田原案内図』 1913年
『百家名鑑第五集』 1900年
『計量検定所小田原支所 60 年の歩み』 神奈川県 1956年
『神奈川の計量100 年史』 神奈川県計量協会 1981年

アクセス

神奈川県小田原市浜町3丁目1番47号